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  • 執筆者の写真サエグササエル

イジリー岡田、芸名の由来は日本一になった客イジリ!壮絶な修行風景とは!?

2021年5月12日放送のニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』にイジリー岡田がゲスト出演。これまでの芸人人生を語った。



日本テレビの『ものまねグランプリ』に出演しているが、ものまね芸人ではないため、そっくり館キサラに出たことはない。また、ネットで出てくるネタはほとんど1回のみだという。


宮崎駿のモノマネは、『千と千尋の神隠し』が大ヒットした頃、他のものまね芸人がこぞって千と千尋の神隠しから探す中、誰もやってないので出来るの何だと探した結果、行きついたという。


公式プロフィールでは埼玉県出身となっているが、本当は東京都北区滝野川出身。だが、3歳から埼玉県浦和市なので、埼玉県出身としている。


ホリプロお笑い草創期



イジリー岡田はホリプロお笑い芸人第1号。当時は相方とコンビを組んでいて、イジリーのコンビしかいないネタ見せが数週間あったという。

その後、『ジーニアス』というコンビがどこかから入ってくるが、その『ジーニアス』の“ウツミさん”こそ、マセキ芸能社のマネージャーで、若手時代のナイツに礼儀作法などを教えた通称「マセキの鬼教官」だと説明した。


1987年頃、ホリプロの社員有志2人だけでお笑い部門を始めようと、会社の正式な許可を得る前にあちこちに出向きフリーの芸人に声をかけていた。

その時フジテレビの素人ものまね番組のプロデューサーにも声をかけたところ、ピンで出演していた岡田が紹介され、そして岡田の元に番組ADから電話が掛かり、電話番号をホリプロに教えることになったのをきっかけに、岡田はホリプロお笑い部門のネタ見せに参加するようになったという。

当時岡田は21歳で、番組での成績は敢闘賞だった。ネタは石立鉄男や三宅裕司の顔マネなどをやったが、結果は今ひとつ。しかし、ネタ後に司会のコンビ『あのねのね』との掛け合いが良かったため、8分も放送されたのが評価されたという。

ちなみに、翌年の優勝者が松村邦洋だった。


そしてホリプロに通うことになり、ピンではやりづらいので、ツッコミ役に高校時代の同級生に声をかけ、コンビをやっていた。当時の芸風は漫才からものまね、そしてコントに行きついたという。


その約半年後、高校の同級生でトリオを組んだ『アメリカンズ』が入ってくるが、それが後の『さまぁ~ず』であった。


岡田は元々欽ちゃんのファン。家族で観られる笑いを、と考えていたが、『ギルガメッシュないと』をやり始め、家族で観られない芸人になってしまった。当時は後輩に「裸で笑いを取る奴は卑怯だ!」と言っていたが、『ギルガメッシュないと』では毎週裸になっていた。


特技「高速ベロ」誕生秘話



高速ベロは27歳の時に開発。今年で30周年を迎える。きっかけは『ギルガメッシュないと』のコーナー、【ギルガメ治療院】でゲストのAV女優が本当のツボ押しマッサージ師にツボを押されている間、番組プロデューサーから、女優さんに手を触れることなく、男性視聴者を盛り上げてくれと言われ、悩んでいたある日、髭を剃っていた時に一瞬ベロが出て、これを高速で動かしたらエロいんじゃないかと考え、試しにやってみたところ、最初から出来たという。

ある番組で調べたところ、1秒間に9回上下していた。


芸名の由来となった名人芸「客イジリ」



もう一つの芸が“客イジリ”。イジリー岡田の芸名の由来で、客イジリの上手さからその名が付いた。

山田邦子司会のTBS『MOGITATE!バナナ大使』(89~95)で6年間前説を担当。

その他、和田アキ子司会の日本テレビ『アッコのおかしな仲間』(88~90)、TBS『やる気マンマン日曜日』(87~89)など多数の前説を担当。当時、ホリプロに来た前説の仕事は全てイジリー岡田が請け負っていた。


過去にフジテレビの特番で『全日本前説選手権』というのがあり、若かりし頃の極楽とんぼも参加。

番組は各組の前説の様子をスタジオにてVTRで紹介。手の内がすべて明かされた状態で、決勝はそのスタジオでお客さんの前で前説を行う。岡田は決勝で漫才コンビ・ホームランと争い、優勝した。

小松政夫から「アンタはエライ!」と書かれた賞状をもらったという。


客イジリのポイントは、経験を積むにつれて、イジっていいお客さんかダメなお客さんかわかってきたことだと語った。


最初の前説は、事務所の先輩である榊原郁恵、井森美幸、山瀬まみ等が出演する、ホリプロ制作の、TBS『やる気マンマン日曜日』。地方を回って1000人規模の会場で撮影するという『8時だヨ!全員集合』のような公開番組だった。

番組のオープニングが始まる前の10分~、オープニングが始まり、歌を歌い、セットチェンジの10分~、ゲスト歌手のインタビューを5分~×2、最後のメインコーナーのセットが組まれるまでの10~15分、それが2本撮りだったため、1日で約120分くらい喋っていたという。当時は1~2年目でまったくの無名。かなり怖かったと語った。

「一番困ったのは20分くらい繋いで、いよいよOK!って前のフロアディレクターが出したときに、また×ってされて、どうしたのと。山瀬まみちゃんが、楽屋で泣いていると。なんかバラエティについて嫌だって泣いているという…、泣き止むまで繋いでくれってカンペが出るという。これが一番今までで」と語った。

しかしギャラは1万5千円くらいで、若手時代は助かったと振り返った。


初めてのライブは…


ホリプロのお笑い草創期は「他の事務所のライブに出てはいけない」という規律があり、他流試合禁止だった。だが、渡辺正行主催のコントライブが行われる『ラ・ママ』にはギリギリ出られたという。


平成元年1月からホリプロライブが銀座小劇場で行われ始め、一番先輩なのに、出番はトップバッターだった。

『タクシー』というネタを披露。客席には先輩の水道橋博士や松村邦洋が様子を見に来ていて、余計に緊張したという。



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