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  • 執筆者の写真サエグササエル

おぼん・こぼん、漫才ブームと漫才協会を語る!

おぼん・こぼんが2022年3月31日放送のニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』にゲスト出演。ナイツが入る前の漫才協会、自分たちの芸、『水曜日のダウンタウン』に至るまでについて語った。



コルドンブルー、漫才ブームの後浅草に行ったおぼん・こぼん。その頃に漫才協会自体はあったが、まだ東洋館が拠点になっておらず、協会員は軽演劇の人達が使っていた松竹演芸場に立ったり、落語協会や落語芸術協会にも所属して、浅草演芸ホールに立つなどの活動をしていた。

ただ、おぼん・こぼんは松竹演芸場が無くなっても、営業やキャバレーなど舞台には困らなかった。


ビートたけしも一時期は漫才協会に在籍。おぼん・こぼんと同じ時期に在籍して、現在の草野球チーム『浅草マンキース』の前身『メダトーズ』でおぼんとたけしは一緒に野球をやっていた。他にも昭和のいるが参加。のいるは「すっごいコントロールのいいピッチャー」だった。

今も野球好きでチームの面倒を見ているおぼんは最近、寿野球に誘われたそうで、寿野球では70~80代の選手が活躍していて、60代は“若手”だという。


意外な同期



おぼん・こぼんが漫才協会で若手と言われた当時、若手と言っても10組前後しかおらず、世の中全体でも若手漫才師は少なかった。

ここで同期についてたずねると、同期はやすしきよし。もちろん年齢や芸歴はやすきよが上だが、コンビで活動しだしたのは同期になるという。

こぼんは横山やすしにかわいがられ、相方に誘われた事もあった。ある日、やすしが「ポケットミュージカルにおもしろい若手がいるねん!」と言っていて、それが西川きよしだった。


東京で同期に当たるのは『青空球児・好児』。こちらも同様に球児好児の方が芸歴は上だが、同じ時期に漫才コンビとしてスタートした。

漫才協会では、東京二がいるが、おぼん・こぼんが東京に出てきた時、既に東京二・京太で漫才をやっていた。新山ひでやも同期だそうで、かつては東修司を名乗り、『東修司・西光司』で「東西コンビ」と呼ばれていた。

『あした順子・ひろし』も最初は『南順子・北ひろし』で『南北コンビ』と呼ばれ、やっていたという。


身に付けた芸



舞台ではおぼんがトロンボーン、こぼんがサックスを吹き、観客を沸かせる。

楽器をやり始めたのは、最初は『お笑いスター誕生!!』に出た時、司会の中尾ミエから、2曲しかできないビッグバンドを作ろうという企画で出演者たちが楽器を持ち、練習し始めた。

しかし、その後は漫才ブームでみんな忙しくなって練習できなくなり、26~27年前に漫才協会でバンドを作ろうとなったので、再開したと語った。


4月4日放送の文化放送『大竹まことゴールデンラジオ!』にゲスト出演した際は、デビュー前の学生時代から振り返った。


17~18歳の頃から1Aプロダクションというところに所属し、キャバレー営業させられていた。大人相手に全くウケないのが当たり前で、なんとかして注目してもらい、拍手をもらうために、歌を習ったり、タップを練習したりし始めた。

タップダンスは、元々こぼんが「何かの役に立つだろう」と大阪のバレエ団に高1の時から習いに行っていた。

こぼんは中学時代から姉と漫才をやり、文化祭では他の生徒と漫才をやっていて、それをおぼんは観ていた。

それが修学旅行で同じ班になり、先生に余興を頼まれて、おぼんと横山ノック(やすしたかし)の漫才をアレンジしてやったらウケて、フジテレビの素人参加番組『しろうと寄席』に出演したら、東京のプロダクションから声が掛かったという。


また、西条凡児の『素人名人会』に参加すると、初任給が17000~20000円の時代に、賞金1万円がもらえ、さらに醤油や胃腸薬など多くの副賞をもらった。学生だったので、賞金は友だちを集めて、阪神デパートでチャーメンを食べるのに使ったと振り返った。


解散を止めた金言



漫才ブームで大金が手に入るようになったおぼん・こぼん。

おぼんは金が入ったら使ってしまう性格で、銀座のキャバクラなどによく飲みに行き、パーっと使っていた。

昔の芸人は“入ったら使う”のが当たり前で、「でなきゃ人が寄ってこない」とおぼんが補足した。

その他、ゴルフ会員権で6000万円の借金、家のローン、度重なる離婚による慰謝料養育費の請求などで、毎月200万円の返済に追われたという。

それでも漫才ブームで営業がバンバン入ってきたので、ちゃんと返せたと語った。


借金を全部返せた後、ホッとしたのもあり、一人になろう、楽になろうと解散を考えたそうで、だがその時は、ショービジネスが好きという芸風が合うのは他にはいないので、口には出さなかったという。


また、おぼんは尊敬する司会者・小野ヤスシにその事を相談。小野の司会術は見事で、ゴルフコンペの司会は圧巻だった。

その小野から「解散してはダメだ」と言われ、半年後に小野が亡くなったので、コンビを続けてきたと振り返った。

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