にゃん子・金魚、結成の由来を語る!東八郎、レオナルド熊、横澤彪の言葉
- サエグササエル
- 2023年5月26日
- 読了時間: 4分
2021年6月1日放送のニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』にすず風にゃん子・金魚師匠がゲスト出演。ナイツも知らなかった経歴を語った。
にゃん子は女優としての肩書もあるが、1983年にカンヌ映画祭グランプリ受賞映画『楢山節考』に松やん役で新人女優としてデビュー。
元々、劇団ひまわり出身で、そこからあき竹城の付き人になり、『楢山節考』のオーディションを受け合格したのがきっかけだった。
そして1985年クラウンレコードから『おわかれ』で歌手デビュー。『命くれない』で有名な北原じゅん氏が作曲した。
一方、金魚の方は北海道恵庭市出身。実家は米農家で、空港から20分、札幌まで40分、周りはゴルフ場という立地だった。
ある時、幼稚園の先生をしながら東京に住んでいた頃、テレビで『お笑いオンステージ』(72.04~82.04)に出演していた東八郎を観て、この人なら私を「食べさせてくれるから」と思い込み、内弟子になった。
他にも中村メイコや、三波伸介が出演していたが、そう感じたのは東だけだった。
その頃既に、素人の漫才大会では優勝するほどの実力を有していた。東玉助師匠の奥さんになった“みどりちゃん”とコンビを組んで優勝し、東八郎門下に入った。
東家には東MAXこと貴博など5人の子供と、クラブの従業員やら、既に内弟子がいたので、14人は住んでいた。にもかかわらず結局、食べさせてくれた。
1988年7月の東八郎の死後、フジテレビのプロデューサーだった横澤彪さんに「どうする?」と訊かれ、特に決まっていなかったところ、「人がいっぱいいるところに行け」と言われ、石井光三オフィスの『劇団七曜日』に預かってもらうことになった。
一方、にゃん子も所属事務所が倒産してしまい、知り合いだったレオナルド熊氏の誘いで、石井光三オフィスに所属することに。
そこで2人は顔を合わせる事になり、レオナルド熊に「お前達コンビ組めよ」と言われ、コンビを結成。だが当時は、漫才は難しいのでやらないと決めていた。
そのため、最初はコントで、当初のコンビ名は『みどりのおばさん』だった。由来は、石井光三オフィスに所属していたのがコント赤信号やピンクの電話など、色のついた名前が多かったため、色の付いたコンビで行こうと名前を決められた。
2022年6月8日放送の『ナイツ ザ・ラジオショー』で、塙が寄席の楽屋で金魚から聞いた結成を決意したきっかけを報告。
金魚は元々、にゃん子と組むのを嫌がっていたが、ある日、にゃん子がミニスカートで現れ、脚が細い事に気付いた。金魚は脚が太いので、自分と対比できると考え、コンビを組むことにし、衣裳も脚が見えるミニスカートで揃えた、と伝えた。
1994年に『じゅんこと金魚』に改名。にゃん子は本名の『じゅんこ』で、金魚には『夏野金魚』という名前があった。
この名前は横澤彪氏のテレビ番組でのレギュラーが決まった時に、横澤から「お前もっと綺麗な名前付けるか」と言われ、季節を入れた名前は良くないと言われていたが、決めなければならなかった時に浮かんだのが、「春の曙、夏の金魚、秋の野グソ、冬の冬眠」という文句があって、夏野金魚にしたという。
その後、落語協会に加入した時に、鈴々舎馬風師匠の弟子に入ったため、『すず風』の屋号を付けた。
そしてコンビ組んで3年、浅草演芸ホールでやる正月番組で、旧知の仲だったおぼん・こぼんに誘われ、おぼん・こぼんの事務所トービックに移籍した。
金魚師匠のゴルフとゴリラ
金魚の特技はゴルフ。バブル時代には仕事が無く、住み込みでキャディーのバイトをしていた。
東八郎の弟子時代にゴルフ場に付いていき、東が回っている間、「練習でもしておけ」と打ちっぱなしをして、風呂に入って終わるのを待っていた。それで実力が付いたが、東からは「ゴルフをまわるのは、自分で稼いでからにしろ」と言われていた。
「草取り」と謙遜しているが、2003年3月31日にホールインワンを出したこともある。
また、ゴリラ芸は、東八郎夫妻と旅行に行ったときに、風呂上りにベッドに飛び乗ったら、東八郎師匠に「お前、サルだね」と笑われたのがきっかけで、やり始めた。
当時、既に猿のものまねで舞台に立っていた三木ヒロシ氏にちゃんと許可を取り、自分も舞台でやるようになり、現在に至る。
Comments