ダチョウ俱楽部、リアクション芸はやりたくなかった!
- サエグササエル
- 2022年11月5日
- 読了時間: 6分
ダチョウ倶楽部の肥後克広と上島竜兵が、2022年4月23日放送のTBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送』にゲスト出演。リアクション芸人を目指していなかったのに、なったワケを明かした。
プロフィール紹介で、ダチョウ倶楽部を組む前に、渡辺正行がリーダーの『コント赤信号』が出演していた渋谷のストリップ劇場『道頓堀劇場』で、俳優の近藤芳正らと30人前後のコントグループ『キムチ俱楽部』を組んでいたと紹介された。
これは正式なグループや劇団というより、パフォーマー集団のようなユニットだったと説明し、他に『東京バッテリー工場』というコントグループのはらみつおと中村有志、ビートたけしの元弟子で、たけしの後ろから肩を揉み、「たけちゃん、弟子にしてよ」と言ったのがきっかけで芸名を付けられた『熱海マッサージ』らが参加していた。
元々、肥後は芸人を目指して上京。一度はビートたけしが修業した浅草のフランス座を訪ねたが、客席が閑散としていたのと客層も高齢すぎたので怖くなり、他にお笑いをやっているという渋谷の道頓堀劇場へ。
そこに行ったら、テレビに出ていた『コント赤信号』が出演しているという看板が出ていて、フランス座よりまだオシャレで、安心して入ったと振り返った。
道頓堀劇場に入ると、自動的にそこのトップである杉兵助に弟子入りする形になり、肥後は師匠や仲間、時にはピンでコントをして舞台に立った。
道頓堀劇場ではコント赤信号はスターとして別格の扱いで、肥後ら他の芸人は全員コメディアンという立ち位置になり、それぞれピンでやったりグループを組んだりして、10日ごとに新ネタを作って披露していた。
一方、上島竜兵は当時お笑いの養成所など無かったため、コント赤信号の3人が所属していた俳優の養成所に入所。そこで寺門ジモンと出会い、後にキムチ俱楽部に参加した。
参加後、他のコメディアンたちとネタ合わせになった際、上島と寺門はまずジャージに着替えて腹筋などの準備運動から始めたため、コメディアン達からは白い目で見られたという。
鶴太郎軍団だった
そしてダチョウ倶楽部結成後、各お笑い事務所からスカウトも来たが、ビートたけしが所属している安心感から太田プロを選択。
実際、たけしは事務所ではたまに見かけたが、ほぼ会わず、ダチョウ俱楽部はたけし軍団に対抗する形で片岡鶴太郎の鶴太郎軍団に入れられ、鶴太郎とパッケージで売られていた。だが鶴太郎はその後すぐにボクシングの方に行ってしまった。
そんな若手の頃はリアクション芸もやっておらず、やりたくもなく、逆にボソッと一言言って笑いを取りたいとつっぱっていた。
そして『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(89.01~96.04)に参加。
現場には林家ぺー、あご勇、ジミー大西など怪物が目立ち、ダチョウ俱楽部はリアクションをやりたくないと、わざと後ろの方に行き、目立たず隠れていた。
しかし、収録後日本テレビから「元気が無くて何もしなかった」と事務所にクレームが来て、太田プロの社長から叱られる事に。当然だと思っていたので3人は気のない返事でやり過ごし、次の出演は無いなぐらいに思っていた。
だが、またオファーが来たため、3人は仕方なく現場に行き、「1回だけやろう」と腹をくくり、参加した。
すると浮き島イントロクイズのコーナーが盛り上がらず、スタンバイ中たけしがガダルカナル・タカに指示して、井出らっきょを脱がせてオチを付けようとしていた。
それを小耳に挟んだ上島が、「先に脱ぐわ」とご法度ながらやりだし、たけしたちにウケた。
そして次の、キラー・カーンに4の字固めされながらウォータースライダーを滑るコーナーもウケ、たけしから「あんなバカいたんだなあ」と認められてしまった。
そこで上島はたけしにウケた事がとんでもなく嬉しく、フリをしっかり作ってくれる集団芸の魅力に気付いたため、方向転換することになった。
収録後、井出にお株を奪ったことを謝りに行くと、意外にも「いや、いいんだよ。竜ちゃん。ケツ出すのオレ一人だろ?苦しいんだよ~毎回」と受け入れてくれて、逆に感謝された。
放送では使われていないが、井出は場を締めるために毎回裸にさせられていたという。
流行語『聞いてないよォ』
お笑いウルトラクイズは真剣に危ないので、リハーサルが慎重に何度も繰り返し行われた。
たけしもロケバスで30分以上待たされながら観ていたが、それに対しては何も言わなかった。
そしていざ本番でダチョウ俱楽部が指名され、「聞いてないよォ!」と知らないフリをして返すとたけしが「もういいよ!リハーサルが長いよ!ずっと観てたよ、お前ら!」とネタバラシをして、笑いにしていた。
すると、それを観た片岡鶴太郎が、おもしろいからやれとスタッフ2~3人に身内ウケだった『聞いてないよォ』をやるようプッシュ。そして、『笑っていいとも!』でやってみたところ、思いっきりスベった。
そしてやめようと、ウケなかった事を鶴太郎に報告したが、鶴太郎はやり続けろとアドバイス。それで10回ぐらいやり続けると、ちらほらと笑いが起こって来て、1993年の流行語大賞・銀賞を受賞した。
1993年の新語・流行語大賞
リアクション芸の後継者
現在は体を張る現場が少なくなってきているが、以前、ナイツが参加した丸太渡りの現場では、肥後はノープランで次々挑戦する若手を観ながら「違う違う」とぶつぶつ言っているそうで、気味悪がっていた。ダチョウ俱楽部からすると、リアクション芸はまず流れを作るところから始まり、仲間内での打ち合わせが重要であると明かした。
だが今は体力的に自分達では出来なくなっているそうで、後継者はいなかったのかと聞かれると、一時、森三中が出てきた時は、大島もダチョウ俱楽部を目指していたのもあって、後継者に感じたという。
現在はパンサーの尾形がかなり良いと感じるそうで、元気さ、空回りさ、体の丈夫さを称賛した。
太田プロでは実は有吉弘行がやりたがっていたそうだが、芸と相性が合わず、諦めたという。
かつて肥後は有吉をかわいがり、有吉が仕事無い頃、肥後は有吉を養子にして水揚げしようとしていたと明かした。
志村との飲み会
志村けんとよく飲んでいたイメージがあるが、志村との飲みは、かなり長かった。
まず食事(町中華)に行き、その後にクラブ、そしてアフターでまた町中華に戻り、終わるのは明け方の3~4時で、コースは各場所だいたい3時間ずつで、計9時間が当たり前だった。
コントや仕事の話を中心に、ちょっと色っぽい話もしたと振り返った。
朝ドラ『ちむどんどん』で甦る沖縄の記憶
沖縄県出身の肥後は現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』に出演。
肥後の子供の頃はドラマのようにドルやセントが流通し、実際に「セントちょうだーい!」と言っていたと振り返った。
また今回、寺門は黒毛和牛の種付けでスケジュールが合わず不参加となったという。
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