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  • 執筆者の写真サエグササエル

内村光良、もっとも落ち込んだのはドーバー海峡横断部で…

ウッチャンナンチャンの内村光良が、2021年9月17日放送のニッポン放送『内村光良のオールナイトニッポン』で、オールナイトニッポンを2年ぶりに担当。自身の落ち込んだ経験について語った。



今回で単独オールナイトニッポンは2019年5月以来、2年ぶりだが、コンビで担当していた金曜1部(89.04~95.04)は1995年以来26年ぶり。

当時、金曜日にウッチャンナンチャンでやっていた時は、トークなど6~7割は相方の南原清隆に任せ、自身は進行に徹していたと述懐し、「こんな喋れるようになりました。提供読みに命賭けてるような感じでしたからね(笑)」と謙遜。内村は24~30歳まで担当していた。

「20代の頃ですよ。『(ウッチャンナンチャンの)やるならやらねば!』(90.10~93.06)という番組をやっておりまして、当時は『(笑って)いいとも!』(88.10~94.03レギュラー)もやって、『夢で逢えたら』(88.10~91.11、後番組『夢の中から』(~92.03)もやってたんでね、週に5日フジテレビ(の番組)でしたね」と回想。

 河田町時代のフジテレビに週5日は通い、朝の2~3時、夜明けまで働いたこともあった。

「若かったからできたんだろうね。もう今お眠だもん」と振り返った。


また、仕事終わりには帰宅途中に四谷通にあった王将で買った炒飯を家で食べるか、ハウスクリームシチューのレトルトをご飯にかけて食べるのが自分へのご褒美だったという。

ちなみに好きなチャーハンはあんまり具が多くないシンプルチャーハン。

また、今はやめたが、当時はタバコを1日90本吸っていたヘビースモーカーだった。


一番落ち込んだ瞬間



芸能活動をしていて一番落ち込んだ出来事について内村は、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(96.04~02.03)の企画【ドーバー海峡横断部】を挙げた。

内村肝煎りの企画で、水泳リレーでドーバー海峡を横断するというもので、内村は部長を務めていたが、その過酷さから最初の1年目で6人中3人が辞めた時、本当に落ち込み、仕事とは言え、泣きそうになったという。

しかし後に新たに3名が加入し、企画は存続。無事2年目で達成したという。


また、デビュー当時、ウンナンで『白雪姫の王子様とシンデレラの王子様』というコントをやって、「1個も笑い取れなかった。スベリにスベリまくった舞台がありました」という苦い経験を語った。


この頃、20代の時の内村は、「映画を作りたかったし、コントをやりたかったし、演者をやりたいタイプでした」と語り、「コントさえやってれば、(いつか)できるかな~」となんとなく考えていた。

「コントをやれればいいと思ってる人間だったんで」と、トークや体を張ることなどには興味がなく、『お笑いスター誕生!!』(80.04~86.09・日本テレビ)では、コントの後のトークなどは全て南原に任せ、点数発表の時などにはあくびをしているところも南原に見られたそうで、今も南原から「お前、コント終わったら一切喋んなかったよな?」とよく言われたという。

そのため、元々は今みたいに司会をやるとは思っていなかったが、いつの間にか司会の仕事のオファーが増えた。


そんな相方の南原とは今年2021年は共演が1回も無い。

今までは年に2~3回(『番組対抗イッテQvsヒルナンデス』『歌唱王』など。共に日本テレビ)はあったものの、今年はお世話になった偉い方の還暦祝いのビデオコメントと、1回目のワクチンの接種場所の2回だけだそうで、そこでは「同級生話で盛り上がりましたね」と明かした。


●富田Mgによるリアルタイムツイート解説

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