古坂大魔王、ピコ太郎とZombie Zoo Keeperのコラボ理由を語る!
- サエグササエル
- 2023年1月14日
- 読了時間: 7分
『ザ・ラジオショー』5月の第3週はボキャブラウィーク。フジテレビで放送されていた『ボキャブラ天国』(92.10~99.09)に出演していた人気芸人が毎週入れ替わり出演した。
2022年5月19日放送のニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』には古坂大魔王が出演。ボキャブラ時代の話や芸人になるまで、そしてあの話題のアーティストとのコラボの真相について語った。
ボキャブラ時代の仕事
『ボキャブラ芸人』と括られるが、筆頭の爆笑問題とは年齢が10歳違う。
また、古坂に言わせるとX-GUN、爆笑問題、BOOMERの3組は1軍で、古坂の底抜けAIR-LINEは3軍だったと謙遜。『ボキャブラ芸人大集合』のような企画にはほとんど呼ばれないという。
『ボキャブラ天国』時代は、スタジオのひな壇に座れる10位以内より以下の成績が多く、セットの外のカメラ側に他の芸人たちと多く位置していた。
10位以下のガヤ芸は台本も無く、団体芸も無いガチの潰し合いで、前に出ないと事務所に怒られていた。
その中でやたらと前に出ようとするアニマル梯団のおさるを喋らせないようにX-GUN西尾と暴力的に黙らせたり、そうこうしていたらたまに柔道経験者である松本ハウスのハウス加賀谷が下りて来て、激しいやり取りを繰り広げたりしていた。
しかし古坂は、その暴れる感じが大好きなとんねるずっぽさに似ていたので、楽しんでいた。
そして番組の終盤間際には、アンジャッシュ、アンタッチャブル、東京03角田の前のトリオ・プラスドライバーも参加して来て、ようやく自分と同じくらい年齢のの芸人が集まり、さらに楽しかったと振り返った。
そんなガチのやり合いをしておきながら、今でもメンバーの仲が良い。というのは、スタッフも多少怖かった。なので一丸となって一泡吹かせてやろうという団結心もあったという。
古坂からすると当時ボキャブラのダジャレネタはあまり得意でなく、やりにくかった。一方、ライブでは音楽コントをやり始めていたのでスタッフに少し音楽コントをやらせてもらえないかと頼んだが、まったく通らなかった。
そして芸人たちが詰め込まれた大楽屋に、「はい!つまんないお前ら、おはよ~う!」と呼びかけてくるスタッフもいた。
だが当時は爆笑問題やBOOMER以外、若手はみんな芸人の卵のような状態。そんな若手芸人が50組も楽屋でワチャワチャ騒いで、場を収めるためにピリッとさせる必要もあったという理由があったと知り、後に和解したと語った。
月曜に出演したX-GUN西尾から、「メガネ割らなきゃいいけど」と言ったら古坂は割るというエピソードが。
当時、「~しなきゃいいけど」と言ったらやらなければならないという悪ノリが流行っていた。今でこそメガネは安く買えるが、当時、体の大きな古坂のメガネは12~13万円ぐらいして、ノリで割るのは苦渋の決断だったと振り返った。
そういった内輪ウケにハマり、全然売れなかった。
古坂の生い立ち
古坂は小5からコントを作り出し、その時から音楽を作ってラジカセを多用し、作ったネタのテープを地元のラジオ局RAB青森放送に送り、名物小学生として呼ばれてもいた。RABは古坂の家から5分だった。
ちなみに一緒にコントをやっていた同級生は現在、エイベックスの執行役員になったという。
そしてコントを持って上京し、日本映画学校(現・日本映画大学)に入学。しかし、日本映画学校は相方作りのためだけで、すぐに「とんねるずが好き」という点だけで意気投合した相方2名が見つかったので、卒業を待てなくなった古坂は2週間で自主退学。相方2人にも頼み込んで学校を辞めてもらった。
元々、当時は東京NSCやスクールJCAなど有名事務所の養成所がまだ無かったため、上京するために必要な口実だったという。また、俳優部に入れば内海桂子や笑組に見てもらえるというのもあった。だがすぐ辞めてしまったため、結局漫才授業は受けていない。同級生にはファンキーモンキークリニックがいた。
スタジオではすぐに辞める必要はなかったのでは?という声も上がったが、上京して入学早々、ネタを持っていた古坂は早く舞台に立ちたくて、お笑い事務所のネタ見せオーディションに応募。7月には太田プロライブ『噂のSHOW TIME』のオーディションを受け、合格していた。そのため、相方に学校を辞める事を頼むことが出来た。
また、入って早々タップダンスの授業があり、タップシューズを買わなければならず、相場6000円のところ、足のサイズが30㎝の古坂は25000円もかかると言われてしまい、しかもやってみると大柄な分、ステップが軽やかに行かず、音も鈍かった。
当時のやり過ぎたお笑いライブ
そして18歳でデビュー。1年目からテレビ朝日の若手芸人勝ち抜きバトル番組『GAHAHAキング』に出演し、『ボキャブラ』には2~3年目で出演していた。
だがこの頃はほとんど本調子では無かった。というのも普段は津軽弁なので言葉が通じず、最初の2年間くらいは標準語に直すため頑張っていたそうで、「ず~っと英語喋ってるような感じでしたよね、芝居をしている感じ」と振り返った。
事務所はまず、太田プロの預かり(仮所属)になり、そしてホリプロコムの前身、M2カンパニーのさらに前身、渡辺正行のなべやに所属することになった。当時X-GUN、長井秀和、先輩にはガムカムズが所属しており、古坂の下にバナナマンの日村、その後に渡辺の運転手を務めていた設楽が入ってきた。
その後、中山秀征のABブラザーズのマネージャーを務めていた宮原氏がM2カンパニーを立ち上げ、そこにスピードワゴン、ジェット☆キッズなどが入ってきた。
パーソナリティーのナイツは当時、同い年で売れていたジェット☆キッズ、エルトンGOタカーズが気になっていて、なかでもジェット☆キッズはフェミ男の格好をしていて人気があり、集客力も高かった。
また当時は普通のライブに加え、事務所合同の『道場破りライブ』がすごく多かった。
底抜けAIR-LINEはメッセンジャーと対決。だがなぜかガチ対決で、負けたら丸坊主という罰まであり、当然客はその緊張感で笑えなくなっていた。やりすぎの時代だったと振り返った。
しかもそんな罰もありながら、『前打ち上げ』というライブ前日の飲み会もあったが、翌日ガチで対決するため、両組一言も交わさないにらみ合い状態だった。
話題のアーティストとコラボ
『底抜けAIR-LINE』解散後、ピン芸人となった古坂は、音楽活動も並行して行い、『ノーボトム!』というテクノユニットを結成し、自腹で日本全国を回っていた。
有名ではなかったため、出演するのはスピーカーが壊れていて客が2人の会場や、高校生主催ライブの前座もあったという。
そして千葉で元ワルのロックの大ベテランがいて偉そうにしているが、舞台では機械を全然使いこなせず、それでもノリノリでロックをしていて、「こんなおもしろい奴いないかな~」と思っていたら、ピコ太郎と出会ったと語った。
そして現在はEテレの『みんなのうた』や『いないいないばあっ!』に楽曲提供。子どもはテクノがわかりやすくて好きだと明かした。
さらに、9歳の日本人少年NFTアーティスト『Zombie Zoo Keeper』とコラボ。
その理由についても詳細に解説。元々、デジタルのアート売買である『NFT』はお金持ち同士が数百万円同士で売買しあっていたものだったが、『Zombie Zoo Keeper』がNFTに出した作品が、人気アーティスト、スティーヴ・アオキに奇跡的に買われ、一躍世界的な話題に。
そして『Zombie Zoo Keeper』の母がアーティストの草野絵美で、古坂大魔王とラジオ番組『水曜THE魂(ソウル)』(NACK5)で共演していた福田萌の友人だったため、BBCやCNNといった世界のメディアからの取材対応について、ピコ太郎プロデュースでブレイクした古坂に相談が及び、面識を持ったという。
その後、知り合いから一緒に曲を作らないかと誘われ、コラボする事になったと説明した。
古坂の兄
体格が良く、格闘技も好きな古坂。しかしケンカはほとんどやった事が無い。
というのも3歳上の兄が188㎝、168㎏で「だいたい(ビッグバン)ベイダーなんですよ」という常人を超えた体格。
その兄が進学校に行って上手くいかず、家で暴れ出したため、家族でそれを抑えるのに毎晩ケンカし、古坂はいつもボコボコにされていたため、学校の誰もケンカを仕掛けて来なかったという。
ちなみに経験から、体重が50㎏違うと殴る蹴るは効かないと教えてくれた。
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