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  • 執筆者の写真サエグササエル

東京お笑い芸人の父・リッキーが語る東京お笑いライブの始まり

お笑いコンビ・ブッチャーブラザーズのリッキーが、2021年4月17日放送のTBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送』にゲスト出演。

リッキーと言えば、2021年4月1日付で所属する芸能事務所・サンミュージックの副社長に就任したことで話題に。



ブッチャーブラザーズは、ぶっちゃあとリッキーのコンビ。

リッキーは京都府出身。元々はスタッフ志望で、ロバート・キャパに憧れ、報道カメラマンになろうというのもあり、映画専門学校を目指していた。すると知り合いの父親が映画の撮影現場で働いてると紹介され、その人の勧めで、東映の京都撮影所附属俳優養成所に入った。そこで俳優の楽しさを知り、大部屋俳優に。相方・ぶっちゃあや同期の俳優・徳井優と出会い、共に自主映画作りもするようになった。


その後、映画撮影に来ていた森田健作と顔見知りになり、1979年、森田に誘われ、先輩だったぶっちゃあと共に付き人(現場マネージャー)として上京。森田の実家の8畳間に2人で住み込みで付いていた。


そして森田氏の所属するサンミュージックに所属。1981年に『ブッチャーブラザーズ』を結成し、フジテレビ系『笑ってる場合ですよ!』の『お笑い君こそスターだ!』で12代目チャンピオンに。

その後事務所を離れ、お笑い専門プロダクションの人力舎、そしてフリー期間を経て、サンミュージックのお笑い部門が立ち上がるのと同時に、先代の相沢社長に請われてサンミュージックへ復帰した。


芸人になったきっかけ



当時、まだ吉本が東京進出をしていなかったこともあり、関西弁でしゃべり合う姿が「漫才みたい」と周囲によく言われていた。付き人期間が終わり、サンミュージックでお笑いを手掛けたかったマネージャーの誘いで、お笑いコンビに転向し、B&B司会の『笑ってる場合ですよ!』の【お笑い君こそスターだ!】に出演した。

同期に当たるのは、とんねるず、東国原英夫(ツーツーレロレロ)、山田邦子。


講師をするようになったきっかけ


東京でお笑いをやる場合、末廣亭などの寄席は、「協会に入る」、または「誰かの弟子にならないと」出演できないというルールのため、自分たちでライブを作ろうと考えた。それが1982~83年頃で、東京で“お笑いライブ”というものができた最初がブッチャーブラザーズによるもの、だという。

 それが現在の『ビタミン寄席』の前身で、渋谷の『プルチネラ』という小さな劇場で、『お笑いハウス』という名前で行われた。

そして2~3回ライブを行う内、プロアマ問わずでやっていたが、「こらアカンわ」というレベルの演者が出てきたため、事前審査となる、『ネタ見せ』が行われるようになった。

 元々関西では『手見せ』と呼ばれるネタ見せが行われていて、ライブに就いた作家の進言もあり、ネタ見せが行われるように。また、サンミュージックがお笑いから手を引き、ブッチャーブラザーズも人力舎に移り、改めてお笑いライブを作り直したかった。


デビュー時代のナイツ



パーソナリティーのナイツは2000年にコンビ結成し、2001年にマセキ芸能社に所属。そこからネタ見せに行くようになり、サンミュージックの『ビタミン寄席』のネタ見せにも参加。


リッキーは新人当時のナイツを覚えていて、「個性的だけど地味でボソボソおもしろい事言う人(塙)とハウスメーカーのサラリーマンみたいな人(土屋)が来たな」と思ったそう。


そしてリッキーは現在、若手に漫才を教える時は、「アンタッチャブル柴田とナイツ土屋を見習え。あの2人は本当に漫才が好きで努力したからあそこまで行った」と教えているという。


ネタ見せで見るところ


リッキーの場合、技術は年数や場数によって備わってくるものなので、

「最初の10~30秒くらいの印象で7割決まってくる」、「中身は2~3言の言葉がググっと出ると(決まる)」と回答。

また、逆にネタの内容は上手いが、心に残らないという人の内5~6人が、放送作家になっていると事情を明かした。


ナイツは口を揃えて、「ビタミン寄席のネタ見せは怖くなかった。(ブッチャーブラザーズ)の2人は優しいアドバイスをしてくれた」と語り、リッキーは、「それには秘密がある」と話し始め、「(作家はキツく言うが、)僕らプレーヤーでしょ?後で一緒に舞台立って、スベッてるの見られて、(陰口)言われるの嫌やなと思って」と明かした。


クビ寸前だったカンニングを救った



サンミュージックに芸人が増え、事務所では抱えきれなくなりつつあり、口減らしをしようとしていた。そんな中、週一のネタ見せ&稽古会にカンニングがネタ作りをサボるようになり、担当を希望するマネージャーの手が挙がらなくなってしまった。

その時、リッキーはカンニングと家が近所で、週に何回かは飲みに行く仲だったので、リッキーが個人で預かると独断。そこからキレ芸のネタが跳ね、リッキーと作家の4人でネタを作るようになったと語る。


それ以前のカンニングは綺麗な形式の博多弁漫才をしていて、くりぃむしちゅーの上田晋也も若手でネタ見せをしていた頃、(作家に)「(くりぃむしちゅーの)2人は面白いんだけど、カンニングみたいな漫才したら?って言われた事がありましたね」と言うほど定評があったという。





注釈


『B&B』:ベストセラー『佐賀のがばいばあちゃん』の作者で有名な島田洋七と島田洋八の漫才コンビ。関西時代に大阪吉本で大人気になり、東京進出を考え、吉本興業に相談し許可をもらい、当時のマネージャーと独立。その後漫才ブームが起こり、大活躍。『笑っていいとも!』の前身となるフジテレビ系の昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』の司会を務めた。


『笑ってる場合ですよ!』:フジテレビ系列で放送された昼帯の帯番組。お笑いに特化しており、フジテレビの名物プロデューサー(後に吉本興業)横沢彪氏が手掛けた。漫才ブームの終焉と共に終了し、『笑っていいとも!』が始まった。

『お笑い君こそスターだ』は、フジテレビで行われていた公開オーディション番組『君こそスターだ!』のお笑いタレント版。5日間勝ち抜くとチャンピオンとなり、番組レギュラーになれるなどの副賞があった。DJ KOOやフジテレビの元プロデューサーの水口昌彦氏、番組終了直前には、ダウンタウンが出演していた。

(公開オーディションと謳ってはいるが、ブッチャーブラザーズが既にサンミュージックに所属していたように、ダウンタウンもまた、大阪吉本に所属している事を隠して、事務所の頼みで、番組が終了し、レギュラーになれないことをわかった上でコーナーに参加していた。)



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