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石橋貴明、荒木大輔と語る帝京VS早実の軌跡!

  • 執筆者の写真: サエグササエル
    サエグササエル
  • 2022年10月3日
  • 読了時間: 4分

とんねるずの石橋貴明が、2022年6月19日放送のTBSラジオ『石橋貴明のGATE7』で、自身の高校時代の高校野球東東京大会の思い出を語った。



高校3年生の石橋は、43年前に行われた1979年の第61回大会に参加。

最後の夏の大会は明治神宮野球場で、当時のスコアボードはまだ完全な電光掲示板ではなく、手でロールして点数表示を変えるシステムだった。

「それが試合終了と共に全部9回から0が全部無くなってグリーン色になるんですけど、それを見た瞬間に、得点が全部緑色になった瞬間に涙が出ました。“ああ、俺の高校野球は終わったな”」と神宮球場の3塁側のスタンドから眺めていた事を思い返した。

同級生のヒラタくんがスクイズを失敗したため、43年経った今でも責められるそうだが、帝京高校はベスト16で準々決勝にも行けずに終わり、そして今も変わらない球場の外壁の所で監督に、「3年生、ご苦労様」と言われた時に、また涙がどっと出たという。


そして石橋は次の日から、「涙の枯れる暇もなく」、運転免許取得費用のために中華料理屋でボーイのバイトを始めた。


実録!帝京VS早実!!



翌週6月26日の放送では、ゲストに荒木大輔を迎え、石橋の母校・帝京高校と荒木の出身校である早稲田実業との戦いについて振り返った。


石橋が高校球児だった当時、帝京高校にとって同じ東東京ブロックに属する早稲田実業高校は大きな壁で、「早実を倒さなければ甲子園に行けない」と胸に刻むほどの難関だった。


石橋が1年生の時(1977年)、3年生が初めて東東京大会の決勝に進出し、早稲田実業とぶつかった。荒木大輔の兄が2年生で、結論を先にすると、12-4のボロ負けだったという。

3回までは帝京が勝っていたが、その後は打たれに打たれ、「ずーっと神宮球場に“紺碧の空”が流れて」と早実が点を取る度に鳴り響く歌が記憶に残っていると語った。


石橋が2年生の時にも、1級上の3年生が決勝に進出。早実とは前年の秋にも戦い、3-2で負けていたが、春の選抜は帝京が初めて甲子園に出場していた。

それを経て夏にまたぶつかり、5~6回まで10-4で帝京がリード。石橋はマブダチで補欠の“ウィリー”ことキハラ君と1塁側のトイレで用を足しながら、「ウィリー、これで夏決まりだな。そうすると俺たち、合宿無くなるなあ!」と前年に味わっていた過酷な夏合宿を避けられるとほくそ笑んでいた。

そしてトイレから戻ると、10-6になっていて、戦況はやや劣勢に。そこに当時「王(貞治)二世」と呼ばれていた早実1年生のアベ君が代打で登場。石橋は下級生とタカをくくっていたが、打球はライトに突き刺さり、3ランで10-9に。そしてまた紺碧の空が流れると、帝京のエースピッチャーも打たれるようになってしまい、13-10で逆転負けを喫したという。

石橋らは喜ぶ早実の球児たちを呆然としながら見ていたそうで、その敗北に帝京高校野球部の前田監督も激怒し、「次の日から練習ですよ」と通常あるはずの夏大会終わりの1日休日が無くなってしまい、「恐ろしかったです。初めてでしたからね、休み無かったの」と振り返った。


そして石橋が3年生の時に、後にヤクルトスワローズのプロ野球選手になる伊東昭光が1年生として加入。石橋が野球部を卒業し、伊東が春の選抜で全国準優勝まで昇り、勢い付いていた帝京が夏の東東京大会の準決勝でぶつかったのが、1年生の荒木大輔がピッチャーを務める早稲田実業だった。

荒木は完封で帝京に勝利し、後に“大ちゃんフィーバー”を巻き起こした。


早実の強さの正体



当時1年生で完封勝利を成し遂げた荒木だが、相対した帝京高校の球児たちは練習で色が黒く、体が出来上がっていて恐かったと語る。

だが石橋は早実の練習量が帝京よりも少ないことに衝撃。石橋たち帝京の野球部員が夜遅くまでの練習を終えて、ヘトヘトのままユニフォーム姿で帰路につくと、私服姿の早実野球部員と出くわして、自分達より練習量が少ないことに驚いたという。


練習が少ない理由の一つに、早実野球部員は各地域のリトルリーグで鳴らしたエリート集団で、元から野球能力が高い。

荒木大輔によると、「僕ら、(夜)8時には必ずいましたね、家に」と振り返り、加えて1時間かけて学校に通っていたため、夜7時には練習が終わっていて、しかも練習終わりに合宿所などで談笑してから帰っていたと練習時間の短さを強調した。


そして荒木は、早実野球部の先輩で現監督の和泉氏から、高校生に野球を教え込むと、「教えた事しかやらない」ため、多少自由にやらせれば、「とんでもないことをやるのがこの年代だ」と聞き、当時の和田監督も同じような考えだったのではないかと思い、「本当に自由でした」と振り返った。


石橋は準決勝のその時、負けて悔しがったが、荒木が甲子園に行っても次々と0点で抑えていく姿や、他にも現れ活躍する高校球児たちに「スゲエや、コイツら!」と脱帽だった。


現在、早稲田実業は西東京ブロックに配置換えされ、帝京と早実の戦いを見られる可能性は少なくなり、石橋は寂しさを。荒木もまた、応援に行っても対戦相手や球場も当時と違うため、思い出のイメージと結びつくことはなくなったと語り合った。

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