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  • 執筆者の写真サエグササエル

舘ひろし、渡哲也に言われた思いやりある数々の言葉

舘ひろしが、2021年9月11日放送のニッポン放送『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』にゲスト出演。これまでの人生、活動を振り返った。



舘は1950年3月31日生まれ、愛知県出身。医者の家に生まれたが、「好き嫌いはしますね」と答える舘。

医者の父親からは「好き嫌いしていい。嫌いなものは食べなくていいって。好きな物を好きなだけ食べて終わり。体が要求してない物食べたってしょうがない」と言われて育ったという。

苦手なのは「生もの系とか。このわたとか、塩辛とか」だそうで、現在も抜群のスタイルを保つが、体型維持に特に気を遣っておらず、スタイルの良さは父や祖父譲りだという。


家では、祖父が「英国かぶれ」だったそうで、世間はインスタントコーヒーが当たり前の時代に、ミルクティーを飲んでいた。当時は「牛乳紅茶」と呼んでいて、舘家にはティータイムがあった。

また、外食に行く時は祖父も父も必ずジャケット着用。その影響か、舘も英国には憧れを感じている。


高校時代はラグビーに熱中



高校時代はラグビー部で過ごしたため、2019年のラグビーワールドカップ日本大会ではPRキャプテンに任命された。

舘が思うラグビーの好きなところは「紳士的」なスポーツであるというところで、ぶつかりあいが激しくて一見、紳士的には見えないが、舘にとってラグビーの紳士性は身を挺してボールを託す「自己犠牲」にあるという。


2021年開催の東京オリンピック2020でもラグビーが行われたが、オリンピックは7人制ラグビーで、舘のやっていた15人制ラグビーとは違いが。15人制は1試合行うと1週間は間隔を空けるが、オリンピックの場合はタイトなスケジュールで行われる。

また、7人制ラグビーから入ってくる選手も多くなってきて、15人制の方も7人制の影響を受け、変わってきていると感じている。

今でこそ声を掛け合うが、舘の高校時代にやっていた頃のラグビーはほとんど声を出さず、静かなものだったという。


そして高校生の舘は、家業である医師になろうと大学入試を受けるが、失敗。試験に落ちた後、次にやることを考えていた舘は、映画好きだったので、オードリー・ヘップバーン主演の映画『いつも二人で』(67)を気に入り、相手役の男の役が世界をまわる建築家であり、自身も家が好きだったので、建築家を目指すかとなんとなく考えたという。


バイクチーム『クールス』誕生



そして1970年に千葉工業大学に進学した舘だったが、映画『ヘルズ・エンジェル 地獄の天使』(67)を観てからバイク好きに。

いつしかバイクチーム『クールス』を結成し、原宿をテリトリーに活動し、話題を呼んだ。

当時は原宿のコーヒーショップ『レオン』を拠点にしていたが、店の前面がガラス張りだったので、イタズラされないようにバイクの見張りができるので利用していたと語った。


その後、1975年4月13日に日比谷野外音楽堂で行われた、矢沢永吉が参加していたロックバンド『キャロル』の解散コンサートに、キャロルのプロデューサーから、矢沢永吉のボディーガード的役割として打診があり、その仕事を受けた。そこから矢沢氏と親交が始まった。

また、これをきっかけに芸能界デビューすることになり、矢沢からは芸能事務所などとの契約の仕方などを教えてもらったという。その親切さに舘は「きっと苦労されたんでしょうね」と思いを馳せた。


デビューを決めた理由について、当時、自身は大学生で仕送りをもらっていたが、他のメンバーはすぐ仕事を辞めてしまうため、「こいつらを働かせないと」と思っていた。そして矢沢氏らと話している内に、レコード会社キングレコードから話があり、歌手デビューすることに決めたという。

これにより矢沢永吉から2曲、ジョニー大倉から2曲、近田春夫からも楽曲提供を受けた。


矢沢永吉が五大洋光名義で作曲したデビュー曲『紫のハイウェイ』は舘が作詞。

当時、「ひろし書いてみろよ」とディレクターに言われた。その頃の舘はガールフレンドが横浜にいて、青山で夜通し遊び、その後に彼女の元へ向かう事が多く、陽が昇る少し前の首都高が紫に見えたため、このタイトルに決めたという。

また、出だしの「背中にうけるオレンジの輝き」も、「西(横浜)に向かってるから」こう書いたと説明した。


歌手としては、ザ・ゴールデン・カップスのデイヴ平尾氏と面識があり、平尾氏が唄っている六本木のクラブに行った時、スタンドバイミーを唄っているの聴いた時、涙が出たという。


映画俳優、石原プロへ



俳優としては1976年に東映映画『暴力教室』でデビュー。クールスの時に映画オファーもあったが、最初は嫌々だった。

しかしそれからしばらくの間、東映の俳優センターに所属し、映画やレコード制作を中心に活動した。


この頃は映画にしか興味が無かったので、石原プロ制作の日本テレビ系テレビドラマ『大都会PARTⅢ』(78~79)や日本テレビ系ドラマ『太陽にほえろ』(72~86)などからオファーがあったが、断っていたという。


その後、石原プロが制作を東映と関係会社のテレビ朝日に移し、『西部警察』(79~84)を作ることになったので、半年間だけの約束で、巽総太郎刑事役で30話まで出演。その後は映画・レコード制作へと戻った。


しかし、1981年12月20日放送の第109話より、鳩村英次刑事として再出演した。

この珍しい展開は、尊敬する憧れの先輩・渡哲也に「お前、戻って来いよ」と言われたため、二つ返事で戻ったという。

渡からは、「ひろし、お前には華があるな」と言ってもらえたこともある。


巽・鳩村両刑事ともバイクを乗り回すが、打ち合わせの段階で、「オートバイ乗ってる刑事見たことない」と言ったら採用され、車種は何がいいか訊かれたので、「そりゃ、ハーレーでしょ」と言ったら、会社がハーレー・ダビッドソンを買ってくれたという。


そして2度目の『西部警察』の時に、石原プロの小林正彦専務から石原プロに誘われ、渡に相談したところ、渡は「この話、俺が預かった。お前は小正(コマサ)ともう話すな」と代わりに条件闘争してくれた。

当時は石原・渡は小林専務直轄で、神田正輝や石原良純などは芸能部という風に別の扱いだったが、渡が「(石原・渡・舘の扱いで、)お前(小林専務)が預かるのなら」とかけ合い、舘の石原プロ入社が決まった。


だが、舘は同じ俳優である石原裕次郎に対して、「石原さん」と呼ぶことは出来ても、「社長」と呼ぶことができずにいた。

そんな中、いよいよ入社前日、渡邸に呼ばれた舘は、渡から「明日から石原プロに来るんだから、わかってるな?」と「社長」と呼ぶことを暗に諭された。

また、「苦労するだろうけど、お互いに傷を嘗め合っていこうな」とも言ってくれた。

実は渡も映画が好きでやりたがっていたが、会社のために何本か断ったことがあったため、舘の気持ちをとても理解していたという。

ちなみに、舘が渡を呼ぶ時の「オヤカタ」は、「親方」ではなく、「お館(様)」の方である。


『あぶない刑事』『刑事貴族』



そして主演としてはTVドラマ『あぶない刑事』シリーズ(86~87、88~89)の鷹山刑事役が当たり役となり大人気に。

この頃はセリフを覚えていかず、現場に着いてから台本を読み、自分のセリフだけ読んで、内容を把握していた。

また、相棒の大下刑事役の柴田恭兵がアドリブを飛ばして現場でウケていて、自分も何度かやってみたが上手くいかなかった。だがアドリブのアイデアを柴田に託すとウケるので、力の差を感じ嫉妬していたという。

ただ、鷹山刑事は説明台詞を中心とした軸となる役だったので、アドリブをされても困るという感じだった。


その後、同じ日本テレビで『あぶない刑事』の監督の長谷部安春氏とタッグを組み、『刑事貴族』(90)を制作。16話まで主演を務めたが、途中降板することなり、後任を郷ひろみが務めた。

この作品はハードボイルドで好きだったが、石原プロ制作のドラマ『代表取締役刑事』(90)に参加するよう呼び戻されため、離れる事になったという。


家での姿は



家ではどんな風に過ごしているのか訊かれた舘は、「食器洗いとか好きですよ」と家事をしている事や、奥様に怒られることがあるのか訊かれると、「しょっちゅうです。あなたはダサいとか」と意外なプライベートを明かした。

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