高田文夫、憧れの青島幸男との対面!
- サエグササエル
- 2022年10月1日
- 読了時間: 5分
高田文夫が、2022年6月16日放送のニッポン放送「ナイツ ザ・ラジオショー」にゲスト出演。多忙すぎる放送作家時代を振り返った。
『ポンキッキ』誕生秘話
高田は子供番組『ひらけ!ポンキッキ』(1973.04~93.09)の立ち上げに参加。それが作家として最初の仕事だった。
フジテレビにいたSF作家の顔も持つ演出家・野田宏一郎(『日本テレワーク』社を創業。作家名は野田昌宏)にかわいがられていたため、フジテレビでは健全な子供番組『ピンポンパン』(1966.10~82.03)があったが、「おい高田、子供番組でシャレのキツいヤツやろうよ」と野田に誘われ、河田町にあったフジテレビのはずれの小屋に50代の作家と3人で立てこもって、1週間徹夜して考えて生まれたという。
そこからスタッフが入り、さらに作曲家の佐瀬寿一が入って『およげ!たいやきくん』(1975)が生まれたと語った。
ガチャピンとムックが生まれたのはその後の事なので知らないという。
「10年間で8時間しか寝てない」伝説
高田は31~32歳から『ビートたけしのオールナイトニッポン』(81.01~90.12)でビートたけしと2人でトーク。その頃は放送作家としてかなり忙しく、「10年間でトータル8時間しか寝てないからね」と大げさに言っているように聞こえるが、実際のところ番組を5~10本手掛け、会議があって各放送局を回り、本番にも顔を出し、それから事務所や放送局に戻って朝まで台本を書いて、それで週に10数本の番組台本を手掛けていた。
当時の台本製作はガリ版刷りで、高田が一晩で5~6本書かなければならないため、大急ぎで書いたものを渡していた。その状態で通常なら読めないほどの字だが、日本テレビやフジテレビには高田の字が読める印刷担当がいたそうで、それで翌日の昼の生放送に間に合ったと明かした。
それだけの番組を手掛けたのであれば、さぞギャラもたくさん入ったのでは?という問いには「ほとんどタダだから」、「お師匠さん厳しいからウチは」と、衝撃の回答。高田の師匠は『夜のヒットスタジオ』(68.11~90.10)や、日劇の演出家として、『クレージーキャッツショー』『ドリフターズショー』を作った塚田茂氏で、当時のギャラはほとんど事務所に入り、高田は決められた月給制だったという。
実は『NHK紅白歌合戦』の台本も3年ぐらい担当。塚田先生の横で書いたが、歌や歌手について資料を調べてセリフを一言一句書かなければならないので、かなり大変だったという。
そして、やがてガタが来て倒れたと明るく振り返った。
憧れは青島幸男
高田は日本にテレビが出来てから観る側の最初の世代。少年時代の高田にとって『クレージーキャッツ』がスターだった。
小学生の時、フジテレビで昼12時50分から生コント番組『おとなの漫画』(59.03~64.12)をやっていて、高田はそれが好きで、昼休みに学校を抜け出して家に戻って観ていた。そして何食わぬ顔で学校に戻っていたという。
クラスのみんなが好きなメンバーとして植木等や谷啓の名を挙げる中、高田は表記される「作・青島幸男」が気になり、「クレージーキャッツじゃなくて、もっと頭の良い人がいる!」と気付き、惚れた。その後、日本テレビで『シャボン玉ホリデー』(61.06~72.10)が始まり、青島も出演して谷啓とコントを繰り広げ、クレージーキャッツより全然面白かった。そこで高田は「こういう人になろう!」と決め、小学6年生の卒業文集に「僕は青島幸男になります」と書いたのだった。
また、NHKでも『夢であいましょう』(61.04~66.04)が始まり、その番組の作家だった永六輔も面白いと感じ、2大スターだという。
青島とは東京都知事時代('95~'99)、『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(89.04~)の中継で対面。「高田だったら知事室入れてやるよ」と叶い、会うと「高田、お前来るのが遅いよ、バカヤロー(笑)。もうちょっと早いところ俺の所来ればよかった」と言ってくれた。高田が青島の弟子になろうとした21~22歳の時は、青島はすでに政治家に転向していた。
一方、大学時代は永六輔のラジオを聴き、原稿を書いてギャラをもらい、「高田君は面白いですね、この人は」と永から言われていた。
バラエティ番組の転換期
高田はバラエティ番組の歴史を振り返り、80年頃の漫才ブームで歌手や俳優に肩を並べるほど、お笑い芸人の地位が上がったと解説。これは萩本欽一やビートたけしのおかげだと語った。
それ以前の番組の台本を書いていた高田は歌手の番組ばかり作っていたそうで、特に『フィンガー5』は子どもだったので読めるように全部ひらがなで書き、飴を渡して飯を食わせてセリフなどを覚えさせたという。
また、アグネス・チャンにはカタカナで書いてみたが、余計わかりづらくなってしまったと述べた。
実際、歌手や俳優の場合、受け答えは一言一句調べて書き込む規まりになっていたため、内容に関して事務所がうるさかったそうで、お笑い芸人が番組をやるようになってからだいぶ楽になったと明かした。
伝説の番組『北野ファンクラブ』
オールナイトニッポンも終わり、ビートたけしとはそれぞれ別の道を歩んでいた頃、制作会社イーストの“ハゲ”こと吉田氏が「ちょっとたまには久しぶりに2人の喋り聞きたいな~」と、『北野ファンクラブ』(91.02~96.03)が用意されたという。
内容はスポーツ新聞を広げて悪口を言うだけのものだったが、このフォーマットが後に当時フジテレビアナウンサーで日大の後輩である中井美穂が司会を務める『プロ野球ニュース』で、シーズンオフにやる事が無いと、元東映フライヤーズの選手で、フジテレビとニッポン放送の野球解説者だった土橋正幸氏と同じような事をするようになった。土橋氏は浅草フランス座の軟式野球チームのエースだったこともあり、そのチームでは井上ひさしと渥美清が守備をやっていたという縁があった。
ちなみに高田は、中井の結婚披露宴で新婦側の主賓としてあいさつも務めている。
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