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高田文夫、浅草にいた頃のビートたけしを語る!

  • 執筆者の写真: サエグササエル
    サエグササエル
  • 2023年2月10日
  • 読了時間: 8分

高田文夫が、2021年12月16日放送のニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』にゲスト出演。Netflix映画『浅草キッド』公開に合わせ、親交の深いビートたけしとの出会いについて語った。



『浅草キッド』にビートきよし役で出演したナイツ土屋伸之は撮影に入る前、当時のきよしの感じを探るために、高田文夫にいろいろと質問。台本を読みながら「きよしさんってこんなに喋るんですか?」と戸惑いをぶつけると、「普段は喋るんだよ!」、「舞台上がるとビシッと黙るんだよ!“寡黙な漫才師”って言われてるからな」とツッコんだ。


そして映画を観た高田は、土屋のポワ~ンとした感じが、一見図々しい感じがして、一瞬きよしに見えたと感想を述べた。


12月7日に東洋館で行われたイベントには、おなじみの居酒屋『捕鯨船』の河野さんも来訪。

河野さんは集団就職で上京し、松竹演芸場のデン助劇団でよく長男役を演じていて、芸歴的にはビートたけしの先輩になる。

だがたけしが浅草に来た頃には、既に芸人を引退していた。


たけしのテレビデビュー前



映画に合わせ、高田はビートたけしが浅草に現れた頃について語る。

高田より1歳上のたけしは学園紛争も終わりの頃、浅草に現れた。それまでは明治大学の学生で、当時流行っていたジャズ喫茶でアルバイトをしていた。通学する小田急でキャンパスのある生田の方まで行くのが嫌になり、新宿で降りて『DIG』や『DUG』などの有名ジャズ喫茶に入って時間を潰したという。


そして大学を中退し、浅草へ。

浅草芸人は人気が高くなるとみなテレビに行ってしまって、それにつられて若い人もいなかった。渥美清、東八郎、コント55号がいなくなり、それでなおのことたけしの師匠になる深見千三郎が浅草に残ったという。

「浅草なんて、草木も生えてないんだからね」というほど廃れてしまったその時代の浅草に、なぜかたけしは行ったのだった。


昭和50年代初頭の浅草は、人も歩いていなかったそうで、前作『青天の霹靂』で人がごった返した浅草を描いて、その事実を高田に教えられた監督の劇団ひとりは、今回は、人通りを少なくさせたという。


一方、高田は20歳で放送作家として足を踏み入れるや否や売れっ子で、ずっと大忙しだった。

そして漫才ブームが来る3~4年前の昭和52年頃に、三波伸介、ポール牧、青空球児・好児らといった浅草出身芸人とよく仕事をしており、彼らから「高田ちゃんあのさ、浅草行った?」と話しかけられ、忙しくて寄席にも行けないと返すと、「行ってみな。スゴイのいるよ」「おもしろいよ~」とポール牧に言われ、青空球児にも「“たけし”ってスゴイのいるよ~。ちょっと怖いけど。あれちょっと気が合うと思うよ」とみんなに薦められた。


それで松竹演芸場に観に行くと、既に評判になっていて、「ギリギリだけど、全てが面白い」と感じたという。そもそもまずネタの危なさが、新しかった。

その上、客も入っておらず、ビートたけし作詞の歌『浅草キッド』の一節に出てくる、「客が2人の演芸場で~」の内1人は高田で、もう1人はTHE ALFEEの事務所の社長の関口登氏で、今では友人だと明かした。

関口氏はちゃきちゃきの江戸っ子であり、面白い人で、大学時代にツービートの全ての舞台を観ているという。学生服で必ず花一輪持って観に行っていた“追っかけ”だったそうで、後に高田がその事をたけしに伝えると、一致してびっくりして笑ったという。


その後、浅草の流儀を知らない高田は「浅草引っ張られたらイヤだな」と思いながらたけしに電話をかけ、NHKの仕事も多くしていたので、「渋谷に来てくんない?」と誘った。だがたけしも「おいら、渋谷行ったことねえからアガっちゃうな」と、お互い電話で牽制しあい、結局「カメラ回すからさ、ちょっとインタビュー来てよ」と言って、たけしだけなんとか呼んだ。


そして「ちょっと空いてる?」とわかりながら訊ね、「おいら、ずっと暇だから」と応じられ、2人で宇田川町の高田馴染みの店に飲みに行き、朝まで足立区の話を聞いて盛り上がった。明治と日大で頭の良さもかなり近かったのも仲良くなった理由となった。

そして朝帰ろうとしたら、「今日何してんの?」とそこから毎日遊ぶようになり、「恋人同士だよ(笑)」とたとえた。

その内、テレビにツービートが呼ばれるようになったが、制作側からネタのNGもけっこうあったそうで、だがたけしは「関係ねえよ、バカヤロウ!」と無鉄砲にやっていたという。


ただ一方で、高田によると深見はたけしが漫才をやって浅草から離れていくのは面白くなかったようで、唄や踊り、お芝居コントをやってこそショーマンだと考えてタップなどを教えていた。その浅草の教えに反してたけしは、ビートきよしに誘われて漫才に転向。太田プロに入るまでは、最初はきよしがネタを書き、営業を取って全国引っぱりまわしていたという。


浅草芸人列伝



昭和こいるが持っていた1983(昭和58)年の松竹演芸場最後の日の香盤が書かれたチラシが。チラシには内海桂子好江、ふじゆきえ・はなこ、Wけんじ、ナンセンス、Wエースといったオールスターの名前と、「さよなら またお会いするまで 謝恩演芸大会」と書かれていた。


高田は、昭和40年頃は、てんやわんや(獅子てんや・瀬戸わんや)、Wけんじ、晴乃チック・タックがいて東京漫才はスゴかったと解説。

そこにてんぷくトリオ、ナンセンストリオ、トリオスカイライン、さらに東八郎や三波伸介がいてコントの方もスゴかった。


そして実は、コント55号がビデオホールでのコントの生放送『お昼のゴールデンショー』(68.04~71.09)に出演し、「女・子供が最初に付いたお笑いスターだ」と言われているが、実はチック・タックの方が先に「いいじゃな~い」、「どったの~?」というギャグのブームが起こり、女の子たちにカワイイとキャーキャー言われていた。後に『意地悪ばあさん』をやる晴乃チックこと高松しげおの人気がスゴかったという。

だがその後にコント55号が現れて、欽ちゃんと岩城未知男という作家がいて、設定だけ考え、アドリブで本番が始まるという浅草のやり方や、飛び蹴りや舞台を飛び回ってカメラのフレームから外れるというのが新しすぎて、東京漫才の人気をすべて持って行ってしまったと解説した。

これには高田もびっくりして、『お昼のゴールデンショー』で毎日5分の新ネタをやっているので、観に行ったそうで、OLで超満員の中、抽選でなんとか潜り込み、OLの「欽ちゃんカワイイ~!」が、30歳を越えていた坂上二郎にも波及し、「二郎さんカワイイ~!」にもなって全てを席巻していたそうで、「人気って、そういうものだよ」と語った。


高田は毎日即興コントというのは腕が無いとできないと感嘆。昭和43~44年頃やっていたが、さすがに疲れたのか別の人に変わることになった。


その後、ヤクルトホールで『爆笑ゴールデンショー』(75.04~09)という復活した形の番組を高田の師匠・塚田茂がやることになり、高田は塚田から、「コント・ラッキー7で、毎日新ネタ出来ねえか?」と促された。しかし高田は「ちょっと(彼らの)力量が…」と抵抗したが実現することになり、そこから毎日新ネタを書くハメになった。


それからは夜中12時にポール牧の恋人の家に行って明日のネタ打ち合わせをして、帰って原稿にしてコピーしてもらい、ヤクルトホールで、漢字の読めない相方の関武志にルビを振った台本を渡し、それからロビーで読み合わせして、12時に本番を迎えていた。

その頃にポール牧が「高田ちゃん、これだけ本書いたら、俺がこれから55号みたいに売れるから、そしたらほらあのビル、来年は君の物」とホラばかり吹いていたので、後に『ビートたけしのオールナイトニッポン』でポール牧がいかにインチキかという話で盛り上がって、たけしの番組で復活させたと振り返った。


安岡力也、ホタテマン起用理由



コント・レオナルドについても振り返り、出会いを語った。

レオナルド熊は素行が悪くて、高田が担当する正月特番『爆笑ヒットパレード』の本番前に相方・石倉三郎から髪を引っ張りまわされて、高田が慌てて止めに入った。そして話を聞くと「熊のヤロウ、金持って逃げやがった」とギャラを独り占めしたそうで、昔はそんなのばっかりだったと振り返った。


コント・レオナルドは日曜になると、いつもは澤田隆治氏の番組『花王名人劇場』への出演だったが、たまに日曜日がオフになると、熊は石倉に内緒で地方に行き、別の相方を仕立てては、“コント・レオナルド来たる!”と勝手に営業をして稼いでいた。

それを知った当時血気盛んな石倉は「熊のヤロウ、殺してやる!」となって、高田はよく止めたと語った。


石倉は元々役者志望で、高倉健の付き人から始まり、それで“倉”の字をもらい、その後には歌手・坂本九の付き人をやっていた。

高田は坂本の番組を担当した縁で石倉と顔見知りになり、その1~2年後に石倉が坂本に「コントをやりたい」と申し出ると、坂本が「だったら高田さんに書いてもらいなさい、間違いないから」と請け合って繋ぎ、石倉が仲間を連れて来て、高田がコントを書いた。しかしそこからなぜか台本だけ持って消え、2年いなくなった。石倉はそのコントで日本全国を回り、ある時、コント・レオナルドとして現れたという。


実は石倉とたけしは共に血気盛んで気が合い、2人が飲んでいると、後から入ってきたやくざが逃げ出したという。ケンカが強く最強のコンビだった。

また、石倉は安岡力也とは深川の神輿仲間で、共に神輿を担いでいた。

そして高田の日本学園高校時代の不良グループの上に国士舘高校のグループがいて、そこで番を張っていたのが安岡力也だった。高田らは子分として上納金を払い、パーティー券を渡されて売りに行っていた。

しかしその縁があり、恩返しとして『オレたちひょうきん族』でホタテマンを安岡にやってもらったという。



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